海鉾/海鋒家の歴史
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海鉾/海鋒家の歴史
・ どんな歴史があるの?
・ なんで「かいほこ」って言うの?
・ 家紋はなに?
におこたえします.


 「海鉾/海鋒」は「かいほこ」と読みます. 「海鉾」と書いても「海鋒」と書いても「かいほこ」で、もとは同じ家族です (海鉾がオリジナルの本家です. ).

 海鉾家は、15世紀に、水戸藩から天童市にある水晶山という水晶が採れる山を監視する命をうけて、いまの天童市に派遣されたことにはじまります.  海鋒と表記する方の家は、この海鉾家の分家にあたります.


川原子から見た水晶山

 この「かいほこ」の由来の一説に次のような話があります:
 天童市川原子の海鉾・海鋒家がたくさん集まっている地区の川向こうの地区に谷地中(やちなか)というところがあり、さらにその小字名に「貝吹道(かいふきどう)」という地名があります. ここはちょうど、上記の水晶山のふもとにあたります.この山の頂上には日本武尊(やまとたけるのみこと)が創建されたと言われる大和神社があり、後の大宝2年(702年)に役ノ小角(えんのおづぬ)という奈良時代の僧が 蔵王権現を拝して開山したと伝えられています.
 この水晶山にふもとから向かう山伏たちは法螺貝(ほらがい)を吹きながら登り、そこから、その道を「貝吹道」と呼ぶようになったと言われています.水晶山を監視する命を受けた海鉾の祖先は、この「貝吹道」を守ることなり、その「かいふき」から、「かいほこ」という苗字になったという話です.
 こうした歴史的な話は、谷地中の曹洞宗 常楽寺に伝えられており、現に文政11年(1828年)に水晶山に海鉾治郎七と治吉という人が奉納した蔵王権現像が祭られています.

水晶山について、もっと詳しくは水晶山のホームページをご覧下さい


 現在、天童市川原子の海鉾家本家は、16代目を継いでいます. 日本には海鉾/海鋒家があわせて173軒あり、その分布は下記のようになっています. 山形県がいちばん多く63軒で、なかでも本家のある天童市には33軒もあります. 川原子地区には海鉾家が10軒と海鋒家が15軒あります.
 全国では、本家の「海鉾」という表記は89軒、「海鋒」が83軒、「海峰」が1軒です. また、読み方では「かいほこ」が160軒、「かいほう」が7軒、「うみほこ」が6軒の順です.  


 以上のデータは、1997年11月現在の海鋒俊哉の調査にもとづいたものです . なお、2000年7月にご連絡があり、オーストラリアのメルボルンにも海鉾さんがお住まいとのことです.

 本家は川原子の国道沿いにあります. ここ
では.建築資材を扱う仕事をおこなっており「海鉾資材センター」の看板が立っています.


  毎年の元日には、この地区の海鉾/海鋒家が集まって海鉾家親睦会が、また2月1日には若い者の「二代目親睦会」が開かれます. 海鉾家親睦会は今年で80回目を数えました.

海鉾/海鋒家の家紋は、この「丸に日の丸扇」です.秋田の佐竹家も同じ家紋で、やはり水戸藩から派遣されいている家計です.

(動画になっていますが、扇が開いた状態が家紋です)


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